植物プランクトンの“タネ”から探る沿岸・内湾域の貧酸素環境

  • 14 海の豊かさを守ろう

〈大学院生物資源学研究科・生物資源学部〉石川 輝(教授)

 沿岸域や内湾域において富栄養化が進行していることはよく知られています。このような海域の底層では特に夏季において溶存酸素濃度が極めて低い水の塊(いわゆる“貧酸素水塊”)が発生して,魚介類が大量に死滅してしまうという事象が大きな問題となっています。従って,沿岸・内湾域の海洋生態系を保全するためには,この貧酸素水塊の発生を予防することが最重要課題となりますが,そのためにはまずそれぞれの海域における溶存酸素濃度の現状を明らかにする必要があります。しかしながら,溶存酸素濃度を精度よく測定するには,高価な測器を必要とし,さらに頻繁に現場に赴いて作業を行うために多大な時間と労力を必要とします。このことが大きな原因となり,多くの沿岸・内湾域の底層における溶存酸素濃度の程度はほとんど把握されていません。

 一般に,富栄養化した海域の底層においては上層から沈降して海底および底層に集積している有機物(プランクトン粒子など)が好気性細菌の働きによって分解され貧酸素化が進行する際,大量のCO2が発生します。加えて,貧酸素環境下では,嫌気性細菌の代謝によりさらに大量のCO2が産生されます。通常,海洋において炭酸の溶解は平衡状態にありますが,CO2が強制的に溶け込むと水素イオン(H+)が増加するので(次式参照),結果としてpHが低下します。
[CO2 + H2O ⇄ H2CO3 ⇄ H+ + HCO3 ⇄ 2H+ + CO32-]
すなわち,貧酸素化が進行した水塊では酸性化が進むことになります。

 ところで,植物プランクトンの中には渦鞭毛藻という分類グループがあり,その中のスクリップシエラ・トロコイデア(和名:マルスズオビムシ)という種は,通常は水中を遊泳して生活していますが(図1-A),環境が増殖に不適になると,炭酸カルシウム(CaCO3)の殻で覆われた休眠期細胞(陸上植物でいう“タネ”としての役割を果たす細胞)を形成して海底に沈降して底泥上で過ごします(図1-B)。この休眠期細胞の殻(CaCO3)は低pH下では溶解し,細胞壁のみの休眠期細胞へと形態が変化します(図1-C)。私たちはこの点に着目して,これまでに底層溶存酸素濃度と海底泥中のこの休眠期細胞の形態変化との関係について,貧酸素水塊が多発する伊勢湾を対象海域として研究を行ってきました。伊勢湾での海底泥採集は,三重大学大学院生物資源学研究科附属練習船「勢水丸」によって行いました(図2)。その結果,本種休眠期細胞の総数に対して殻が溶解したものの割合が14%を上回るような場では,溶存酸素濃度は例外なく0.2 mg/Lを下回る環境になる場であるという関係を見い出すことに成功しました(Ishikawa et al. 2019)。例えば愛知県水産試験場の指針によると,「溶存酸素濃度が約0.8 mg/Lを下回る場では,全ての底生生物の生存が困難」であるとされていますので,このことはすなわち,上述の割合が14%を上回る場ではエビ・カニや貝,底魚といった底生生物の生存が困難な場であるということになります。海底泥を採取して休眠期細胞を顕微鏡下で観察・計数することは慣れれば比較的容易にできますので,つまり,上述の成果は,この休眠期細胞(タネ)をバイオツールとして用いることによって容易にその場の溶存酸素環境を評価することを可能とし,さらにその結果をもとに生物の生存環境をも判定することを可能にしたものとなります。今後,さまざまな沿岸・内湾域において海底泥を採集し,この休眠期細胞(タネ)の形態変化を利用して,それら海域の溶存酸素環境を評価していく予定です。

【図1】スクリップシエラ・トロコイデア
  • 遊泳細胞
  • 炭酸カルシウム(CaCO3)の殻で覆われた通常の休眠期細胞
  • 殻が溶解した休眠期細胞

【図1】スクリップシエラ・トロコイデア

  • 勢水丸での海底泥採集風景

    【図2】勢水丸での海底泥採集風景

引用

  • Ishikawa, A., Wakabayashi, H., Kim, Y.O. (2019) A biological tool for indicating hypoxia in coastal waters: calcareous walled-type to naked-type cysts of Scrippsiella trochoidea (Dinophyceae). Plankton Benthos Res. 14: 161-169.

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